天生の伝説

天生という地名のいわれ

 その昔、天生は余部の里(あまりべのさと)に九郎兵衛という百姓が住んでいました。この九郎兵衛には信夫(しのぶ)という一人娘がいました。しかし気の毒な事に彼女は、生まれつき見るに堪えないような醜い女で、もう25を過ぎたというのに、誰一人婿になろうという者もない有様でありました。
 村祭りの夜、村人は輪になって踊っていても彼女は人前に出る事を嫌い、顔を出しませんでした。しかし家にいても鬱々として面白くありません。家を出て小鳥川にかかる橋まで来たとき急に喉の渇きを覚えて水を飲もうと川に降りました。川の水を手で水を掬おうとすると、美しい満月が目の前の水の面にうつっています。信夫は水とともにその月を掬うと煌々と光る月がすっぽりと手の中に入りました、そして信夫はそのまま美しい月と水を共に飲み干してしまいました。このことがあってからこの村の川の面には満月の影がうつらなくなったといわれています。
 月と水を飲み干した信夫のお腹は不思議な事にだんだんふくらんできました。九郎兵衛夫婦は娘が名も知れぬ人の子をはらんだと思いこんでこれを恥じ、我が家から追い出してしまいました。追い出された信夫は一人山に隠れて無事に元気な男の子を産みました。月の子を産んだ村だから天生といい、川瀬の月を掬って飲んだ場所は月ヶ瀬という地名になりました。
(飛騨の伝説 昭和9年刊 小島千代蔵著より抜粋転載) 

 また一説には、大陸から渡来して帰化した外国人が優れた材木を探して飛騨の奥深く分け入り、信夫との間に子供をもうけたという話も伝わっています。
 そして生まれた子どもは首が異様に長い事から、鳥とも呼ばれましたが非常に優れた木工の腕を持ち、成人して都に出て立派な工匠となります。
 奈良法隆寺金堂の本尊である釈迦三尊像の光背には、造像記が刻まれていて、制作をする事になった由来とともに釈迦像は聖徳太子の等身大の像であり推古天皇31年(623)3月に完成した事も明記されていて、作者は鞍作止利とも刻まれています。
 これが先に書いた鳥とも呼ばれた鞍作鳥(鳥仏師)だともいわれていて、飛騨の匠のルーツともいわれています。
 この「鞍作止利」にまつわる多くの伝説が天生湿原には残っていて、住んでいた匠屋敷や田を作った跡の田形などの地名が伝わり、匠堂が祀られています。

 また天生峠から登る事ができる籾糠山の名前のいわれですが、河合村の伝説によると鳥仏師は神通力で木彫りの人形に魂を入れて水田を耕作させ、秋には臼で籾をすり、玄米と籾糠を風で分けたところ籾糠が毎年うず高く積もったところから、この山が籾糠山という名前になったといわれています。

金山谷と金鉱山

 こちらは伝説ではなく実話です。
 天生にはかって金山がありました。天生谷を少し上流に遡った左岸に金山谷という谷が流れ込んでいます。この金山谷の奥にその金鉱山はあったのです。
 大正から昭和の戦前・戦中には鉱夫長屋、事業所、発電所、診療所から小学校の分校まであり、当時としてはとても珍しく夜中でも電気が煌々と輝いていたそうです。80人近い人々の生活がそこには確実にありました。ところがある年のお盆の夜大火事があり、これがきっかけで急速に村は寂れしまいました。
 (一説には山崩れと、鉄砲水が村を押し流したともいわれていますが、大火事を目撃した方の話を聞きました)
 今は金山谷に行く道も崩れ、谷川を遡り、藪をくぐり抜けなければたどり着く事ができません。たどり着いた先にはかっての金鉱山を偲ばせる建物の礎石などが苔むして、その昔ここにも人々の暮らしがあった事を伝えています。

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